Wochenende Café

好きなことだけして生きていたらいつか好きな人に会えるミラクルが起きてほしい。

編集・Kさんにまつわる一抹の切なさについて。

 読書の秋。いろんなひとの本が出版され、文庫化され、それを片っ端から買い集めていく季節となりました。きっとツンドクとして積まれていき、年末年始のお供になるのだろう。つむつむ。

 

 以前エッセイについて備忘録的に、つれづれなるままにそこはかとなく書きつくったとき、『ロール・プレイング眼鏡』というエッセイを僭越ながら紹介させていただいた。といっても紹介というほどの大したことではないけれど。おもしろいんですよこれが。毎号楽しみでしょうがない。

 

 そしてこの秋、『47歳、まだまだボウヤ』というタイトルで総集編的、通過点(であると信じたい)的な本が刊行されるに至ったそうです。

 

 

おめでとうございますというべきかありがとうございますというべきか。どちらにせよ非常に心待ちにしていました。特に最初のほうは読めていなかったし、ザクライに関してはまだ生まれてませんから。…いやちょうど生まれたくらいか…?ともあれ、心躍ってました。ブレイクダンスです。

そして読み始めて案の定、読んだことのなかった『RPG』3回目のエッセイにしてやられました。泣きました。「私は『みんな』じゃなくていい」。その言葉に軽率に救われました。疲れたときに何度でも読みに来よう。

 

閑話休題

 

『ロール・プレイング眼鏡』には外伝なるものがありまして。


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YouTubeで著者である声優・櫻井さんと担当編集・川戸さんが、エッセイの内容をあーでもないこーでもないと缶ビール片手にお話しされているようなものです。次回作のテーマなんか決めてたりします。それを見ると次の発売が待ちきれないのなんのって。でも公開された当日に『ダ・ヴィンチ』片手に見ちゃうんだよなあ。

 

話がそれました。

 

その担当編集・川戸さんがこれまたとても聞き上手で、人を手のひらの上で転がすのも上手。まあ転がるほうも上手なんだから、そりゃころころころころ、なめらかですよね。動きが。当然今回の『まだボウ』の制作、出版にも大きく寄与してくださっているでしょう、ありがとうございます。『外伝』では缶詰と呼ばれる校正作業で丸二日費やしてたりするからね、本当に尊敬しか。

 

 そしてそんな本が手元に届きまして。まずもって装丁が好きなので、カバーを外して「おお…これが…」なんて眺めて、それからカバーで、帯でおんなじことをして、ようやく読み始めたらもう秒でした。何度も何度もおんなじところを読み直したりしてたのに、気づけば奥付とこんにちは。もの寂しさを感じながら最後のページを見ると、制作関係者の名前がいくらか載っている。そういえば川戸さんは川戸さんだなあ。何て名前なんだろう。気になりだしたら最後、やめられない止まらない。名前の欄をさーっとスキャニング。

 

…あれ。

 

見落としたかなあ…。そう思って何度も見返したけれど、ついぞそのお名前を拝見することはできませんでした。載っているのは「カドカワ」、会社名でした。川名さん(カメラマンさん)のお名前と櫻井さんと、3人そろっていないことがとても寂しかった。

 

 TPOによって何が大事で何が大事じゃないかは大きく違うと思うし、それこそが価値観なのだと思います。そしてこの場合において、大切なのは編集の名前を出すことではなかった。それだけなのでしょう。

 

 けれど、『外伝』まで見てしまっている読者兼視聴者にとって、川戸さんはもう川戸さんであり、ただの編集さんではないのです。…ていうか、ただの編集さんだったら著者の地元巡り旅なんか考えないし、まして著者の実家まで訪ねたりしないでしょ。たぶん。


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 やりがいの搾取、なんて言葉が叫ばれ始めて久しいようですが、それはきっと誰が何をしているのかが匿名化されて不透明になったからだと思います。まずはそのひとを知らなければ、応援などできようもない。知られないほうが都合のいいこともたくさんあるのは理解しているつもりだけれど、ぼくは好きなものには好きと言いたいです。応援されれば何かが好転することもあるかもしれないし。わからないけど。

 

 とはいえ、きっと『ロール・プレイング眼鏡』も『外伝』もまだまだ続いてくれることでしょう。きっとこれからもありがとうを伝える機会はあるはずだと思う。そんな機会を逃さないように目を光らせつつ、これからもこれを楽しみに生きていこうと思いました。

 

 どこかでこのボヤキが届くといいな。

 

 それで2弾とかやればいいさ。待ってます。

 

 

 

時間がない、とはいうけれど。

時間がない。最近は本当に時間がない。

 

 毎日のように大学のスケジュールが変わって、家にいることになったかと思えば今度は親がアキレス腱を断裂したために家事に追われることとなった。いや、おかしいでしょ。

 

 最近は珈琲を淹れるという一番の楽しみすらできなくなって、もっぱら緑茶を淹れている。簡単だから。もちろんおいしいし一息つけるのだけれど、そうじゃないんだ。ぼくには、コーヒー片手にブログを書いたり、本の感想を書いたりする時間が必要なのだ。

 

 そういえば最近はA5のノートに、読みものの記録を貯めている。本はきっと、生まれる前に選ばなかった人生を追体験できるような、いわば生のカタログだと思う。なんてかっこいいっぽいことを言ってみるけれど、単純にいろんな言葉を知りたいだけです。真っ白なノートに概要と感想を思いついただけ書き連ねている。左利きだから万年筆ではどうにも書きづらいけれど、それはそれで無駄が楽しい。

 

 閑話休題

 

 時間がないのは自分の事情だからしょうがない部分も多いのだけれど、どうにも生き急いでいるような気がして好かない。もっと好きなことを学際的に学んでみたいのだ。そして、たまに部屋の掃除をしたりする、そんなゆったりとした時間の流れが欲しいのだ。そう、思っていたのだけれど。

 

人を人たらしめるのは働くことであり、頑張った分だけスローな時間の糖度が増す。

 

そんなことをどこかで見たような、聞いたような気がする。『ダ・ヴィンチ』の中のエッセイだと思う(最近それしか読んでないし)。

 

確かになあ。昨年一年間は大学生活というものをすべて失ってしまって、時間の余裕はあったけれど夏休みのようなわくわく感はさすがに皆無だった。まあ、休みの理由が理由だからかもしれないけれど。そして、今年のゴールデンウィークは思いのほかウキウキだった。遠出も旅行もできないけれど、近場の本屋に行くことや車を運転することがなぜだかいつもより楽しかった。糖度が上がったのだろうか。

 

 もちろん、無理はしたくない。けれど、そんな考え方でもいいのかな、と思う。ずっと頑張るのでも、ずっとスライムになるのでもなく。そのバランス感覚はこれから磨いていきたいけれど、どこで身に着けるものなんだろうね。

 

 お、こんな時間。夕飯を作らなければ。

 

それでは、今日はこれで。

 

 

不思議の国のぼくら。

 小さいころ、まだ世界のいろいろな仕組みがわかっていなかったころに見た世界。今思えば、それはまさに「不思議の国」だったのではないだろうか。車の助手席に座りながらそんなことを考えていました。

 

 小さいころ、雲はどうやってできると思っていたのだったか。ATMはどんな仕組みで動いていたのだろうか。テレビの中には何があると信じていたっけ。

 

今でこそ大抵のことには説明がつくし、わからなくても調べて理解するくらいの知識が身についてしまった。それは確かに成長ということなのだろうけれど、少しだけもったいないとも思うんです。

 

 窓の外を流れる風景に園バスを見つけたら、幼稚園に行きたくないと泣きながら登園した記憶がよみがえってきた。別に幼稚園そのものが嫌いだったわけではない。親と離れるのもそれほど抵抗はなかった。友達はいたし、帰りの歌を歌えば帰れることを知っていた。それでも行きたがらなかったのは、園長先生の手袋が怖かったからだ。

 

 そう言われても腑に落ちないだろうから、もう少し説明しよう。通っていた幼稚園には送迎バスがあり、運転手は園長先生だった。いつも白い手袋をつけてハンドルを握っていたのをよく覚えている。元気かなあ。当然バスの入り口には段差があり、幼い子供たちにとっては非常に大きい段だった。園長先生はだから、子どもたちが後ろに転げ落ちないように腕をつかんで引っ張り上げていたのだ。それを見た幼き頃の僕は、手袋が先生を操っていると思っていた。強い力で引き上げられるのが、いつもの優しい園長先生とは重ならず、その異質さが怖かった。

 

 今思えばそれは園長先生のやさしさではあるのだが、幼稚園生には理解できないだろう。けれど、手袋が先生を操っている、そんな世界観って面白いなあ。そんなことを思う僕の横を、ネコバスみたいな幼稚園バスが通り過ぎていく。

 

 雲は「雲生産工場」がせっせと白い煙を吐き出しているのだと思っていたし、ATMの中には人がいるか、またはジェットコースターのようにすごい勢いでお金が地中のパイプを介してほかのATMと交換されていると思っていました。テレビの中には人が入っているとは思わないまでも、小人くらいは入っていてせっせと働いてくれているのだと思っていました。かわいげのある子ですね。

 

 義務教育などとうに終えて、世界の仕組みをある程度知ってしまった今では、もうそんな世界を見ることはないのかもしれない。学習する内容はどんどん観念的になっていくから、目に見えるものに対して不思議に思うこともどんどん少なくなってきました。あの頃は毎日が大冒険だったのになあ。幼き日の、天地がひっくり返るほどの鮮烈な発見も、今ではこうして書き留めておかないと忘れてしまいそうなほどに薄れている。

 

 学習とは知識を蓄えることであると同時に、正しさを知って間違いに寛容ではいられなくなることでもあると思います。だから、正しいと言われたことを正しいこととして受け入れ、自分の世界における間違い、すなわちオリジナルを修正して現実に近づける。そうして自分だけの世界が回らなくなっていって、気付けば忘れ去られてしまう。

 

 けれどあの時見ていた未知の世界は、そしてそこに見つけたいろんな法則は、それがどれだけ現実に反していようとも「自分だけの世界」と言っていいのかもしれないと思う。少なくとも自分の中でテラリウムのように保存して飼っている分には。そして時々取り出して、幼いころを思い出して感傷に浸るのだ。それが、子どもではないぼくらのささやかなぼうけんなのかもしれないね。

やさしさの味を見つけました、が。

 さてさて。味シリーズです。

味っていうのは、安全な食事を手軽にとれるようになった現代においては非常に娯楽的要素が強い感覚だと思っています。なかったら日々の彩は失われてしまうけれど、死ぬことはないんじゃなかろうか。精神的にはともかくとして、肉体的には。

 

 とある思考実験について聞いたことがある。色を情報として完璧に知っている、けれど生まれた瞬間からモノクロの世界で生きてきた、すなわち「色を見たことがない」人がいたとして、そのひとが初めて色の溢れる世界に踏み出したときに新たに学ぶことがあるのだろうか、という。

 

 色は情報量が多い。たとえば、黄色は危険とか、赤は止まれとか、そういうのって知らないと死ぬ可能性が高まるじゃん。だから、色という概念について学ぶことはなくとも、社会的に与えられた後付けの意味とか、そういうのを考えれば必然的に学ぶことがあるんじゃないかな、というのが持論なのだけれど。自論であり持論なのだけれど。じゃあ、味ならどうなるんだろうね。辛いもの食べても、苦いもの食べても、酸っぱいもの食べてもしょっぱいもの食べても死なないのに、学ぶことなんかあるのかなあ。

 

 閑話休題

最近は、発掘したコーヒーミルを使ってお豆から珈琲を淹れるのが楽しくて仕方ないのですが、きのう思いつきでカフェオレにしてみました。ミルクが円を描きながら沈んでいって、お砂糖を一杯。いいですねえ、おいしそうです。ちゃんとお砂糖が溶けきるまでティースプーンで混ぜてから飲んでみたら、これがまたちょうどいいんだ。いい感じの甘さでいい感じのミルク。昨日の自分は天才だと胸を張れる。まあ、自分で作ったから当たり前と言えば当たり前なのだけれど。けれど、たとえばもし、もしこれが誰かに作ってもらったものなら、それはやさしさの味なのかな、なんて思ったりしたのだ。

 

ほしいときに欲しいものをくみ取って、それに合わせてシンプルにカフェオレを作れる、それが思いやりとかそんなものなんじゃないかな。

 

 けれど同時に、こうも思う。ブラックコーヒーの気分の時にカフェオレ出されたらちょっと冷めるな、と。

 

 うん、わがままですねそりゃ。やさしさとか思いやりとか愛情とか体のいいことばでまとめてみるけれど、それは結局要求であり、要望であり、時に命令なのだろう。うーん、難しい。だから結局は何が飲みたいですか、と聞くのが最善だろうけれども、それだと「察しろ文化」の日本人が納得するはずもなく。面倒くさいねえ、まったく。

 

 この件に関しての結論は、だから結局自分で淹れやがれということです。いま自分の中ではそうなっています。自分で自分のご機嫌を取りましょう、なんてよく言われる割にはできていないひとが多い。それはきっと誰かにカフェオレを入れてもらうのを待っているから。そのくせして待ちくたびれてブラックコーヒーの気分になったりして、そこでやさしい人がカフェオレを淹れてくれても結局ぶちまけちゃうんだもんなあ。

 

 所詮みんな子どもです。「親は親で、子はいつまでも子」みたいな意味ではなく、単純にみんな情緒が子どもなんです。他人に期待する以上思い通りにならないことも多いのに、それを理解しようとしないからいろいろおきるんです。知らんけど。

 

 だからとりあえず僕は自分でコーヒー豆を選びに行くところから始めようと思います。自分で自分のご機嫌を取るためにも。

 

 こんなことを考えながらコーヒーの湯気をぼーっと見ていたら結構冷めてしまった。けれど猫舌としては非常に飲みやすくて好ましい。ちょうどいい温度なのでそろそろ飲もうと思います。

 

p.s. 暇さえあればこんなことばかり考えているのだけれど、そしてそれが普通でみんなもそんなもんかと思っていたけれど、実はそんなこともないと最近知りました。驚き。

 

 

シャーデンフロイデ、どんな味?

 シャーデンフロイデ。不思議な響き。

どこで聞いたかはとんと見当がつかぬ。多分ラジオとか動画とか、そんな感じのメディアで聞いたんだと思う。けれど、おいしそうだなと感じたのは鮮明に覚えている。

 

「フランスのお菓子っぽいよね。」

スイーツ好きの友人が言った。そうそうそれそれ。まさにそんな感じ。ちょっとサクサクしているメレンゲ焼いたみたいなのに、砂糖がまぶしてあったり、チョコがかけられていたり。そんなイメージ。贈答用のお菓子としてすごく重宝しそうな、そんなサイズ感と価格帯。そごうの地下に売っていそう。おしゃんてぃー。

 

 結局それはどんな意味の言葉なのだろうか。友人も知らなかったので、少しわくわくしながらグーグル先生に聞いてみた。辞書じゃないのは許してほしい。なんせ出先での出来事だったのだから。

 

シャーデンフロイデ 意味』 検索。ヒット。

『自分が手を下すことなく他人が不幸に陥った時の、喜びのような感情。』

 

 うん、なるほど。それはおいしいわけだ。友人と顔を見合わせて噴き出した。そうだよね、ちょっとわかるよね。どれだけ仲のいい友人だって、自分が調子悪いときに相手がそれより悪い状態だったら、ちょっぴり、ほんのちょっぴり胸がすくよね。他人の不幸は蜜の味だもんね。

 

 目の前に友人がいるのにあけすけに言ってしまうのもどうかと思うが、その子も笑いながら同意していたからきっと類友なんだろうな。その子はずっと爆笑していた。

 

 西尾維新先生の作品が好きで、最近物語シリーズを読み返している。登場人物の一人に、強豪バスケットボール部で活躍していたにもかかわらず、足に怪我をして一線を退かなければならなかった少女がいる。その子は紆余曲折あって知り合いから相談を持ち掛けられることになり、気付く。ああ、この人たちは、自分よりも絶対的に圧倒的に不幸な私に話すことで、同情されないと安心している、と。そして同時に思う。私もまた、この人たちの悩みを聞くことで自分より下がいる、と安心できる、と。

 

 結局そんなもんなんだろうな、人間って。こんなに主語を大きくしていいかはわからないけれど。どこに行ったとて不幸話は瞬く間に広がる。それは自分と比べて安心できるからで、つまり不幸がおいしいということに他ならないのだろう。卑しいね。

 

 けれどシャーデンフロイデはおいしいから食べ続けます。用法容量は守るけれど。中毒にならない程度にきをつけながら、自分が卑しいことを自覚して。そして今日も手を合わせる。どこかの誰かの不幸を目の前にして、顔も思い浮かべられないその人の幸福をうわべだけで祈りながら、いただきます。

 

抜け殻。

 こうも時間が有り余ると、普段は考えもしないようなことがふと頭をよぎる。世界が滅亡したらどうするか、とか、タイムスリップできるなら過去か未来か、とか。今の技術では未来にしか行けないらしいけどね。あとは、死んだらどうなるのか、とか。

 

 特定の宗教を信じているわけではありません。神様はおみくじといざという時の神頼みの存在。困ったときには「神様、仏様!」って言ってしまうくらいに希薄な宗教観しか持っていません。だけど、死ぬっていう物理的な現象は絶対にいつか起きる。だからその時を想像して、その先を空想しながらコーヒーを煽る。

 

 死んだことはないけれど、先に逝ってしまったひとを見送ったことはある。そんな時いつも思う。ここにあるのは抜け殻なのだろうか、って。

 

 今からとても不謹慎なことを言う。死んでしまったものが、それが虫であろうとも動物であろうとも、とても気持ち悪い。さっきまで動いていたものが動かなくなる瞬間、それは何か断絶されたもののようで、その線引きを超えてしまったら生き物がただの物になる。それがとても気持ち悪く感じてしまう。まるで、蝉の抜け殻のよう。確かに生きていたのだけれど、今はどうなっているのかわからない。

 

 僕が死んだらどうなるのだろうか。誰かが偲んでくれるのだろうか。葬式はそれほど集まらないだろう。こじんまりとしてくれればいい。そこにいる人は泣くのだろうか。何を思って?

 

 僕は葬式に行くと空気に泣いてしまう。あの独特な、荘厳な、でも悲しい雰囲気に泣かされている。他にもそんな人いますかって聞いてみたいけれど、不謹慎の重ね塗りになるからやめておく。

友達を作ることと、フィルムカメラ。

 友達って、どうやって作るんでしょうか。

大学に一度も行かないまま一年が過ぎた。なんとかやっていけることを知ってしまって、すると不思議と大学に行くのが怖くなる。だって、要らないって証明されたし。

 

 新しい環境に慣れること自体はそれほど苦痛ではない。体力が落ちていなければ気力で大抵なんとかなる。けれど、人に慣れることはどうにも苦手だ。

自己評価が低いからか、誰かに嫌われることをいつも極端なまでに恐れている。自分の周りから人が消えることがひどく恐ろしい。あったものがなくなる怖さを知っているから、最初から持たないようにする。僕が言っているのはそんな暴論なのかもしれないとおもう。

 

 元来、先生から笑顔がかわいい、友達と仲良くやれている、そんな評価をもらうタイプの子供だった。それを最悪な方向に捻じ曲げたのは小学生の頃で、他人とは一生分かり合えないとわかってしまった。昨日の友は今日の敵、なんてね。別にそれで寂しくなることはなかったけれど、人と関わることがひどく怖くなってしまった。

 

 ただ、逆らうことを知らない子供だったから、大人とかに流されながら不登校になることもなく小学生を修了した。自分を騙し騙しやれていたのだろうな、と今ならわかる。楽しくはないし辛かったけれど、もはや義務教育の意味を取り違えたかのような義務感で通学していた。ランドセルは重かった。

 

 結局人との繋がりは希薄で、誕生日なんて覚えられないし(それは自分のせい)会わなきゃすぐに忘れてしまう。けれどそれでいいのかもと思う。スマホのカメラで写真を撮るように、気軽に簡単に増やして要らなくなったら消去する。言い方はとてもきつく聞こえるけれど、実際ほとんどの人付き合いってそんなもん。だけど、全部スマホだと僕らが僕らでいる必要性がない。だから、ほんとうに大切にしたい何人かだけはちゃんとフィルムカメラで写しておきたい。手間もお金もかかるけれど、それでもいいと思える数人だけをフィルムに収めて、気が向いたら現像して、印刷して、あぁこいつか、ってなりたい。その数人に出会うことがきっと至難の業なのだろうけれどね。