Wochenende Café

好きなことだけして生きていたらいつか好きな人に会えるミラクルが起きてほしい。

essayとエッセイ。

 『ロール・プレイング眼鏡』という不思議な名前のエッセイが読みたくて、ダ・ヴィンチを買った。人生においてあまり雑誌というものと縁がなかったから、まず読み方がわからない。こんな気持ちは新鮮だった。読書にはいろんな方法があるのだなと改めて知った。

 

 もともと本が好きだった。『ネズミくんのチョッキ』や『はじめてのおつかい』から入って、気付けば小説を読み漁っていた。青い鳥文庫にはどれだけお世話になったことか。そして時の流れに抗わず気付けば普通の文庫本に手を出していて、なるほど大人はこういうものを読むのかと少し背伸びをしていた気がする。とはいえ、読んでいるのは『図書館戦争』だったが。

 

 エッセイというものを知ったのはたぶん、偶然に最果タヒさんを知ったときだった。何で知ったのか定かではないが、知っているような知らないような、そんな不思議な気持ちを丁寧に切り取って言葉の枠に収めてくれる、そんな詩を初めて読んだ。けれど個人的には『もぐ∞』が好きだった。好きとか嫌いとか懐かしいとか、そんな個人的な感想を放埓に書き散らしているのが好きだった。それから最果さんの作品はエッセイを中心に蒐集している。

 

 『ロール・プレイング眼鏡』を知ったのはダ・ヴィンチ編集部のYouTubeチャンネルをおすすめされたからだ。櫻井孝宏さんという声優さんが編集担当のかたとゆるりとした雰囲気でお話している動画だった。もともとアニメは好きなので櫻井さんの名前こそ存じ上げていたが、エッセイを書かれているとは知らなんだ。思いたったら吉日。近くの書店でダ・ヴィンチを買って、冒頭に戻る。

 

 話すことと聞くことと書くことと読むことはすべて違う筋肉を使うと思う。だからこそこのエッセイにひどく興味をひかれたのだけれど、その期待は見事に裏切られた。もちろんいい意味で。想像していた通りの緩さ加減で、けれど輪郭があって、すごく面白かった。こういう風に自分で書いていると恐れ多くもエッセイを書かれている様々な方と比較してしまって、自分の語彙力のなさを痛感していたたまれなくなる。そうして改めて言葉を扱う仕事をする方々の専門性に気づく。誰にでもできることを誰にでもはできないレベルで完成させる。最高だ。

 

 英語のessayと日本語のエッセイはやはりどこか違うと思う。英語の方がよりフォーマル、というか、自分の意見を述べるものはほぼessayと呼ばれるので、その許容性が高い。日本語における訳は意見文、とでもしておこうか。対照的に日本語ではゆるりとふわりと自分の好きなことを好きなだけ、いわば徒然草のように書く。僕は学校でessayを書かされたことはあるけれどエッセイを書いたことはなかった。だからだろうか。エッセイがひどく新しいものに見えるのは。

 

 エッセイって人の思考を合法的に覗くための道具だと思う。みんな違う価値観を持っています、それを現実に体感させる装置かもしれない。だからこそ、理解できないこともあるけれど、それはそれでいいかと許せる度量が必要なのだろう。だとしたら、現代人は何かしらエッセイを読むべきだ。そして僕は現代人代表として、自分の琴線に触れる作品との出会いを待ちながらずっと読み続ける、そんな生活を送りたい。

ありがとう、RPG。長続きすることを願ってます(願掛け兼お願い)。

 

 

 

 

地球最後の日に、

 明日、地球が滅亡します。

 

 最近、地球が滅亡するのはどんな風だろうかと想像することがある。このままパンデミックで終わるのか、近い将来流星に飲み込まれるのか、はたまた遠い未来から宇宙人が来るかもしれない。人間同士の争いで終わるのだって、あながち空想じゃあなさそうだ。

 

 個人的には、流星の衝突か、地球自身の爆発で終わってほしい。痛くなさそうだから。で、滅亡するという事実は前日くらいに知りたい。きっと多くの人が慌てふためいて、いくら統率のとれた日本といえども無法地帯と化すだろう。犯罪とかそういう概念もなくなって、強盗略奪殺人ありとあらゆる「悪いこと」がはびこるのだろうとおもう。 普段はまじめな人も、どうせ明日死ぬのだからとやけになって人を殺すかもしれない。

 

 そんな中で、僕は、ほんとうに愛する人に会いに行きたい。その人は何事もないように普通の生活をしていて、一緒にご飯を食べて、ゴロゴロしながら読みかけの漫画を読んで、最終話が見られないことだけ後悔していたい。動画見て、なんか今日は回線がつながりやすいね、とか思っていたい。

 

 夜になって、お風呂に入って、アイスなんか食べてしまって、満たされたまま同じ布団に入りたい。こしょこしょ話の声で、最後の最後に秘密を暴露してみたい。言いたかったけど言えなかったこととか、実はあの時こんなことを思っていたとか、あなたのここが好きとか、嫌いとか、そんな話をくふくふと笑いながらしていたい。最後の瞬間には、来るはずもない明日の予定を立てて、幸せなまま死にたい、と思う。

 

 だから目下の目標は、そんな過ごし方ができる相手を探すことです。そんな人に見つかるまで、地球が滅亡しませんように。

 

花粉とくしゃみとピクニック。

 春が近づいてきたと思うのは、花粉が瞼を重くしてティッシュの消費が増え始めるころです。だから、人よりも早く春を感じている。

 

 花粉症は思ったよりつらい。鼻が常にむずむずするし、鼻水もだばだば流れるし、めは痒くて眼球取り出して洗いたくなる。本当にいいことなんかない。治療とかできないのかなあ。

 

 でも何よりも花粉の嫌なところは、春の外出を憂鬱にしてしまうことです。晴れてあったかくて何でもできてしまいそうな日でも、花粉のせいで洗濯物を取り込むことすらおっくうになる。どれだけ薬を飲んでも効果を感じられないのはなぜ。今年も目が開かなくなってきたので、春が近い。

 

 ピクニックに行こうか。

 

 暖かくなると友人が途端にはしゃぎだす。特にこのご時世、外で集まる方が衛生的なのは間違いない。だけど僕が花粉症なのをお忘れではなかろうか。桜を見るのも、外で弁当を食べるのも好きだけれど、やっぱり自然には勝てない。辛いよ。

 

 生まれ変わったら花粉のない星に生まれるか、すでに花粉症が存在しなくなった時代に生きたい。

冥府魔道。

 ラジオを流し聞きしていた。ある程度日本語が堪能であるという自負がある僕であるので、他人との会話に「ん?」となることなくついていけているのが常である。が。

 

「それは冥府魔道だよ。」

 

 盛大に息をこぼした。ん?????めいふまどう?なにそれ?文脈からも推測できぬぞ。どうした国語力。脳内変換もポンコツで、とりあえず聞こえた言葉をそのまま日本語でグーグルの検索窓に打ち込んだ。めいふまどう、検索。

 

 まあ、ざっくり言えば「いばらの道」とかそういった類の言葉らしい。ここでの本題は言葉の意味ではないので詳細な説明は差し控える。確かにそのタイミングで話していたことは確か、職場への服装の話だった。オフィスカジュアルもないような職種で、果たして何を着ていくべきかと、女性パーソナリティーが男性パーソナリティに相談していたように記憶している。

 

「わたし、よくダサいって言われるんですよ。やっぱりおしゃれとか気を使うべきですかね。」

「いやいや、おしゃれとかそういうのは冥府魔道だからね。」

「ん…?」

「修羅の道だからさ。ほら、正解がないじゃない?」

 

 おお、よかった。女性パーソナリティーよ、君も理解できなかったか。

 

 結局話は「自分のスタイルを貫こう」みたいなきれいなまとまりで終わって、それほど心に残るものということでもなかったのだけれど(当然だ、流し聞きだったんだから)、そのラジオでその男性が見知らぬ言葉を使ったとき、プロってすごいなあと改めて思った。ふわっとした感想だけど、本当にそう思ったのだ。だって、「喋る」という当たり前でどこにいても起きるような現象にもプロと素人の差が出てるんだから。

 

 そして、それと同時に自分の不勉強さを猛省した。冥府魔道、まあ語源がとある漫画家先生の創作ってことになっていたから正式、というか古来から使っている日本語、というわけではないらしいけど。それでもなんか悔しかった。なんかしてやられた感じするわこれ。この事変以来、ちゃんと知らないことを調べてアイフォンのメモ帳に羅列するようになりました。いつか使ってみたいよ、冥府魔道。

贅沢。

 急須を買った。ザ・急須。赤茶色で、がさついているあれ。使い初めに茹でないといけないなんて知らなかったなあ。今度おいしい茶葉でも買いに行きたい。晴れた春に、ベランダで、レジャーシートを敷いてお香を焚いて、お茶飲みながら読書したい。

 

 コーヒーミルを発掘した。化石みたいに物置棚の奥に隠れていた。ちょっとお宝を発見して得意げになった。近いうちにメンテナンスして使いたいなあ。

 

 この一年、大学生という身分ではどこにだって行けなかった。それぞれの世代に苦悩があるのは分かっていて、それでも大人が、卒業式も入学式も学園祭もサークルも授業すら許されない環境に、仕方ないというその一言が許せなかった。だってあなたたちはその時間を楽しんだんだろう?その時間のありがたみを知らない人間が言う「仕方ない」なんて、信じられないじゃあないか。そもそもこんなことになったのは「大人」の皆さんの責任じゃあないのかい。それこそ、こんなこと言ったって仕方ないのなんか、わかっているのだけれど。

 

 去年の3月から、ほとんど外に出ないまま1年が経とうとしている。その人生最長の「春休み」の中で自分が非常に内向的な人間になってしまった、と思う。他人と関わることがひどく億劫で、友人どころか家族とすら会話をしたくない。非常に陰鬱な毎日を送っている。

 

 

 

 とはいえ。自分で自分のために時間を使うのってなんて贅沢なのだろうと思う。これは世界が変わって初めて得た知見です。特に、たいして高尚でもないことに時間を使えるというのは。友人と昨日のテレビの話をするのと同じくらい非生産的で、それでもその時間を自分のためだけに使える。それはひどくぬるい幸せだと思う。時間をかけて部屋を片付ける。ベランダにわざわざレジャーシートを持っていく。そして何も考えず無為に時間を過ごす。刺激はない。けれども、ぬるま湯の中を揺蕩うようなそれもまたたまにはいいものなのかもしれない。

 

まあ、ごくたまには、の話だが。

愛してるぜ。恋してるぜ。

 無性に何かが、誰かがいとおしくなる時って、ない?

それは別にものでも、動物でも、人でもいいし、人の中だって身近な人でも、アイドルみたいな遠い人でもいい。そういうものって明日を生きるのに必要だ。

 

 明日はあの人がテレビに出るから、あさっては友達の誕生日だから、しあさってはCDの発売日だから、そうやって一日一日を指を折りながら過ごしていく。死のうとするのを辞めるような、それでも明日を生きる決意をするその姿ってすべて等しく尊いよ。だから好きなものが多い人って楽しそうに見えるんだ。

 

 だけどいとおしさとは違う。いとおしさって、なんていうか、誰かに大声で言いたいんだけど誰にも知られたくないんだよね。閉じ込めておきたい。それのために何でもできそうな気もしてくるけど、それから離れることはしたくない。ままならないね、愛。だけど、僕らはそれで生きているのかな。

 

 僕はウイルスのせいで学校に行けていないから、自由に使える時間が多いです。だからなるべくいろんなものに触れる努力をしているけど、その中でごくまれにいとおしさを感じることがある。この間書いたかわいさを知っている人の話、あれも僕のいとおしさの発露です。ああいう風に、むずむずして、背中がかゆくなって、胃をぎゅうと握りしめられるような、それでも幸福感で満たされるような、そんないとおしさを感じます。もはや、恋。

 

 もちろんそれがすべてではない。他にも、夕暮れとか、冬の温かい日差しとか、コーヒーとか、CDとかギターとか、捨てられないものっていっぱいある。これが今の僕を構成しているのは間違いないし、やっぱり捨てられないくらい愛してる。そしてそういうものって一回はいとおしさを感じていたりするのよね。だから結局僕の今は恋で構成されている。暴論。

 

 恋って偉大だよね。女の子をかわいくするから。すべてを変えて原型をなくして、それでもなお明日への希望と生きがいを残す。だから僕も、いとおしさを恋だとめでたい頭で勘違いしながら、明日を待とうと思う。ちなみに僕にとっては、ドーナツが、特にオールドファッションがいとおしい。

 

 

認められたい。

 承認欲求ってどこから生じるのでしょう。僕は「親に褒められたい」というもはや本能のような刷り込みが最初だと思う。それが適度に満たされた人ほど自己肯定感が強く、足りなかったらその分だけ吹けば飛ぶような強度になるのではないだろうか。

 

 そもそも、なんで親に気に入られないといけないんだろうね。僕らは望んで生まれてきたのかもしれないけど、生前のことなんかわからないわけで。実際にこの世界で知覚できるのって、自分の誕生は自分以外の誰かのせいで起きたってことだけで、それでもなぜ僕らは生きることに感謝しないといけないの。親の望む子供でいないといけないの。

 

 生きていることが嫌になったわけではありません。それなりに辛酸を嘗めつつも人並みには生きられていると思います。だからこれは単純な疑問。なぜ僕らは親に「養われている」のか。「できるのにしない」人はともかく、まだ自立できない子供と大人のはざまにおいて、なぜ「養ってやっている」と言われねばならぬのか。成長するまで養う、その覚悟をもって僕らを生んだんじゃないのか。なんて自分勝手。

 

 閑話休題

僕は弁護士になりたい。それはそれは非常に不純な動機からであるが、まあ要するに生きているだけで社会から認められたいのだ。認められやすい職業、一つには人前に顔をさらす職業。それができるほどいい顔なわけでも突出した何かを持つわけでもない。そうなるとやはり職業への制限が強いものにならないといけない、希少性的なあれ。そんな不純な夢に向かって今日も勉強します。