Wochenende Café

好きなことだけして生きていたらいつか好きな人に会えるミラクルが起きてほしい。

やさしさの味を見つけました、が。

 さてさて。味シリーズです。

味っていうのは、安全な食事を手軽にとれるようになった現代においては非常に娯楽的要素が強い感覚だと思っています。なかったら日々の彩は失われてしまうけれど、死ぬことはないんじゃなかろうか。精神的にはともかくとして、肉体的には。

 

 とある思考実験について聞いたことがある。色を情報として完璧に知っている、けれど生まれた瞬間からモノクロの世界で生きてきた、すなわち「色を見たことがない」人がいたとして、そのひとが初めて色の溢れる世界に踏み出したときに新たに学ぶことがあるのだろうか、という。

 

 色は情報量が多い。たとえば、黄色は危険とか、赤は止まれとか、そういうのって知らないと死ぬ可能性が高まるじゃん。だから、色という概念について学ぶことはなくとも、社会的に与えられた後付けの意味とか、そういうのを考えれば必然的に学ぶことがあるんじゃないかな、というのが持論なのだけれど。自論であり持論なのだけれど。じゃあ、味ならどうなるんだろうね。辛いもの食べても、苦いもの食べても、酸っぱいもの食べてもしょっぱいもの食べても死なないのに、学ぶことなんかあるのかなあ。

 

 閑話休題

最近は、発掘したコーヒーミルを使ってお豆から珈琲を淹れるのが楽しくて仕方ないのですが、きのう思いつきでカフェオレにしてみました。ミルクが円を描きながら沈んでいって、お砂糖を一杯。いいですねえ、おいしそうです。ちゃんとお砂糖が溶けきるまでティースプーンで混ぜてから飲んでみたら、これがまたちょうどいいんだ。いい感じの甘さでいい感じのミルク。昨日の自分は天才だと胸を張れる。まあ、自分で作ったから当たり前と言えば当たり前なのだけれど。けれど、たとえばもし、もしこれが誰かに作ってもらったものなら、それはやさしさの味なのかな、なんて思ったりしたのだ。

 

ほしいときに欲しいものをくみ取って、それに合わせてシンプルにカフェオレを作れる、それが思いやりとかそんなものなんじゃないかな。

 

 けれど同時に、こうも思う。ブラックコーヒーの気分の時にカフェオレ出されたらちょっと冷めるな、と。

 

 うん、わがままですねそりゃ。やさしさとか思いやりとか愛情とか体のいいことばでまとめてみるけれど、それは結局要求であり、要望であり、時に命令なのだろう。うーん、難しい。だから結局は何が飲みたいですか、と聞くのが最善だろうけれども、それだと「察しろ文化」の日本人が納得するはずもなく。面倒くさいねえ、まったく。

 

 この件に関しての結論は、だから結局自分で淹れやがれということです。いま自分の中ではそうなっています。自分で自分のご機嫌を取りましょう、なんてよく言われる割にはできていないひとが多い。それはきっと誰かにカフェオレを入れてもらうのを待っているから。そのくせして待ちくたびれてブラックコーヒーの気分になったりして、そこでやさしい人がカフェオレを淹れてくれても結局ぶちまけちゃうんだもんなあ。

 

 所詮みんな子どもです。「親は親で、子はいつまでも子」みたいな意味ではなく、単純にみんな情緒が子どもなんです。他人に期待する以上思い通りにならないことも多いのに、それを理解しようとしないからいろいろおきるんです。知らんけど。

 

 だからとりあえず僕は自分でコーヒー豆を選びに行くところから始めようと思います。自分で自分のご機嫌を取るためにも。

 

 こんなことを考えながらコーヒーの湯気をぼーっと見ていたら結構冷めてしまった。けれど猫舌としては非常に飲みやすくて好ましい。ちょうどいい温度なのでそろそろ飲もうと思います。

 

p.s. 暇さえあればこんなことばかり考えているのだけれど、そしてそれが普通でみんなもそんなもんかと思っていたけれど、実はそんなこともないと最近知りました。驚き。